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こけし工人紹介◆阿部国敏工人◆

 阿部国敏さんは土湯温泉で最も若いこけし工人として活躍しています。土湯こけしが最も隆盛(りゅうせい)した時代に名人と言われた阿部治助(じすけ)氏を曾祖父に持ち、祖父の勝英(しょうえい)氏、祖母のシナ氏、父の敏道氏と続く土湯こけし工人の名家に生まれました。曾祖父の治助氏のつくるこけしは「治助こけし」と呼ばれ、大正ロマンを代表する美人画家竹久夢二(たけひさ ゆめじ)が訪欧したとき、カバンに忍ばせていたのが「治助こけし」だったと言われています。19才でこけしの木地作りを陳野原幸紀氏に学び、描彩は父や祖母から学びながら描彩の技術を磨いてきました。伝統こけしを作る一方で、「伝統こけしは限られた人にしか見て貰えない、一般の方にも見て貰える親しみやすいこけしを作ろう。」という思いから「ほほえみがえし」という可愛らしい表情のこけしが生まれました。「ほほえみがえし」は大きな頭をかしげた形が最初に思い付き、無表情のまま首をかしげると怖い印象になってしまうため、にっこりと微笑んでいる口にしました。胴体は三角形にして首をかしげた際の安定感を持たせました。   ろくろ線と細胴で女性的な魅力が土湯こけしの特徴。また、土湯に限らず伝統こけしは削りから描彩まで一人で作るため同じものは2つとして作れません。足踏みろくろでろくろ線に色の滲みが出るのも、線の返しがあるのも伝統こけしの魅力であり味であると語ります。  福島市土湯温泉町字下ノ町25 ☎024-595-2156

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土湯温泉の歴史

土湯温泉の開湯には諸説あります。    一説には神話の昔、大穴貴命(オオナムチノミコト)※ が陸奥国(ムツノクニ)視察の際、当地を訪れ荒川の畔を鉾(ホコ)で突くと不思議と霊泉が滾々(コンコン)と湧き出たと伝えられています。鉾で突いて湧き出た温泉だった事から「突き湯」と呼ばれるようになり何時しか「土湯」という地名になったとされます。※大国主命の別名とされる   他の一説には用明2年(西暦587年)、聖徳太子によって父である用明天皇の回復祈願と仏教布教のため秦河勝(ハタノカワカツ)が遣わされましたが、半身不随の病におかされ、志半ばにして重病となり寝込んでいると、夢枕に聖徳太子が現れ、『信夫郡土湯というところには霊泉があり、湯浴びをすれば平癒(ヘイユ)する。』とのお告げを受けました。秦河勝は重病を押し荒川の畔(ホトリ)土川まで辿り着くと、聖徳太子に告げられた通り霊泉を見つけだし湯浴びをすると数日のうちに体も軽くなったと伝えられています。

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