ブログ RSS



こけし工人紹介◆陳野原幸紀工人◆

福島県土湯の陳野原健蔵氏・フジヱ氏の五男に生まれました。長兄は和紀氏。以前から兄和紀氏のこけし製作を身近に見ていたので、こけしには興味があったという。昭和46年スキーで足を骨折したのをきっかけに、リハビリの傍ら兄和紀氏のもとで木地を学ぶことになり、やがてこけしの製作をはじめました。最初は、兄和紀氏が製作していた佐久間粂松(くめまつ)の型に倣っていましたが、やがて蒐集家(しゅうしゅうか)※が粂松の古作やその写真を持参して復元を依頼する様になり、各種の粂松型を作る様になりました。粂松型は珍しい二重まぶたが特徴のこけしです。平成になって若い層に愛好家が増えていくに連れ、その嗜好(しこう)にも応えて「マリンボーダーこけし」や「トンガリこけし」など新考案の型にも取り組まれています。現在、山水荘の売店で販売している「こけしの楊枝入れ」も手掛けられております。愛らしい表情の楊枝入れが食卓を彩ります。また、こけし工人として活躍する一方で、土湯温泉の飲食店「味処ひさご」の経営もされております。その他にも、山水荘・YUMORIで提供している“発酵食”についてもたくさんのアドバイスを頂いています。           ※コレクターのこと 伝統こけしの技法を踏襲(とうしゅう)し、土湯こけしの型を伝承していくこと、その時代にあったこけしを伝える(良いものを作りそれを次の時代に残して行く)のも工人の役目です。そうした中で年代による変化が生まれるのもこけしの面白さであると語ってくださいました。伝統こけしの魅力は顔を見ていて飽きないところです。また、癒しの表情で見て頂くとこけしも癒しの表情を返してくれまます。その時その時の見る人の心で表情を変える、それも伝統こけしの魅力の一つです。 福島市土湯温泉町字杉ノ下21 ☎024-595-2329

続きを読む



こけし工人紹介◆阿部国敏工人◆

 阿部国敏さんは土湯温泉で最も若いこけし工人として活躍しています。土湯こけしが最も隆盛(りゅうせい)した時代に名人と言われた阿部治助(じすけ)氏を曾祖父に持ち、祖父の勝英(しょうえい)氏、祖母のシナ氏、父の敏道氏と続く土湯こけし工人の名家に生まれました。曾祖父の治助氏のつくるこけしは「治助こけし」と呼ばれ、大正ロマンを代表する美人画家竹久夢二(たけひさ ゆめじ)が訪欧したとき、カバンに忍ばせていたのが「治助こけし」だったと言われています。19才でこけしの木地作りを陳野原幸紀氏に学び、描彩は父や祖母から学びながら描彩の技術を磨いてきました。伝統こけしを作る一方で、「伝統こけしは限られた人にしか見て貰えない、一般の方にも見て貰える親しみやすいこけしを作ろう。」という思いから「ほほえみがえし」という可愛らしい表情のこけしが生まれました。「ほほえみがえし」は大きな頭をかしげた形が最初に思い付き、無表情のまま首をかしげると怖い印象になってしまうため、にっこりと微笑んでいる口にしました。胴体は三角形にして首をかしげた際の安定感を持たせました。   ろくろ線と細胴で女性的な魅力が土湯こけしの特徴。また、土湯に限らず伝統こけしは削りから描彩まで一人で作るため同じものは2つとして作れません。足踏みろくろでろくろ線に色の滲みが出るのも、線の返しがあるのも伝統こけしの魅力であり味であると語ります。  福島市土湯温泉町字下ノ町25 ☎024-595-2156

続きを読む



土湯温泉の歴史

土湯温泉の開湯には諸説あります。    一説には神話の昔、大穴貴命(オオナムチノミコト)※ が陸奥国(ムツノクニ)視察の際、当地を訪れ荒川の畔を鉾(ホコ)で突くと不思議と霊泉が滾々(コンコン)と湧き出たと伝えられています。鉾で突いて湧き出た温泉だった事から「突き湯」と呼ばれるようになり何時しか「土湯」という地名になったとされます。※大国主命の別名とされる   他の一説には用明2年(西暦587年)、聖徳太子によって父である用明天皇の回復祈願と仏教布教のため秦河勝(ハタノカワカツ)が遣わされましたが、半身不随の病におかされ、志半ばにして重病となり寝込んでいると、夢枕に聖徳太子が現れ、『信夫郡土湯というところには霊泉があり、湯浴びをすれば平癒(ヘイユ)する。』とのお告げを受けました。秦河勝は重病を押し荒川の畔(ホトリ)土川まで辿り着くと、聖徳太子に告げられた通り霊泉を見つけだし湯浴びをすると数日のうちに体も軽くなったと伝えられています。

続きを読む